何から目を逸らしたいの?
024:好きとか愛してるとかそんな簡単なものじゃなくて
閉館の看板を出して世間からはまだ早い夜半をこの建物は迎える。葵は身軽くターンするようにして事務仕事を片づけている葛の元へ行く。夏も近いこの時期は熱く、雨後ともなれば湿って四肢を萎えさせる。倦んだようなそれにうんざりしながらも葵は気軽く葛の目の前で二人の寝室がある階上を指し示す。葛はしばらく睨みつけるようにして葵を見ていたが、ふぅと肩が落ちてひらひらと手を振る。葵は葛のしるしを読み取って身軽く階上へ上がる。きしきしきし、と階段が鳴った。葵は自室の扉を開けてからしばらく小首を傾げた。万年床とは言わないがそれなりに乱雑に散らかっている。装丁の立派な蔵書や帳面が放り出されて、付けペンのペン先は黒く錆が浮く。
「あー、…怒られる。葛の部屋にしよ」
バタンとなかったことにして葵は葛の部屋へ入る。
二人が共に暮らす経緯は複雑だが不明瞭だ。暗黙の了解として互いの存在理由である特殊能力は使わないという了解が生まれた。だからそれぞれの寝室には施錠できる器具がついている。それでもそれらが使われたことはほとんどない。葵は人付き合いなど堪えと譲歩と我儘の連続であると思っている。だが葛はどうも違うようなのだ。その際は深部に及んでいて、時折本業の最中に衝突を繰り返すものだから、周りからは別居を勧められている。顔を突き合わせては気不味かろう、という配慮だろうが、葵と葛が案外これで上手くやれている。
葛は確かに頭は固いし一辺倒だし偏っている。それでも説明して納得すればそうするし、どうしようもない事情で信念を曲げることも知っている。葵にとって葛は早々付き合いたくない部類の人間ではなかった。寝食を共にした結果として二人は枕も交わした。だが一つだけ、葵がしていないことがある。葵はどさりと整えられた寝台に体を投げ出す。気付いて靴紐を解くとぽいぽいと靴を放る。
あいしています
それだけがどんなに甘く優しい睦言であっても葵が葛に云えぬ言葉であった。葛の寡黙な性質は相手に喋らせる狙いでもあるのか、葵は葛と対した時に特に能弁になる。それでもその一言だけが言えない。
ばらばらばら、と音がして葵が跳ね起きた。窓硝子に雨滴が激しく打ちつけている。打ちつけられたそばから流れをつくって硝子に筋が奔る。葵は慌てて窓硝子を閉めるとついでに鎧戸も下ろした。そのまま自分の部屋へ飛び込んで同じことを繰り返す。放り出してあった帳面が少しふやけたが自業自得だ。仕方ない。鎧戸を下ろして、ちょっとした失態のそれにため息をつきながら葛の部屋へ戻ると葛がは既に待っていた。
「悪い、急な雨だからさ。お前の方、どう? 暗室とか応接とかオレ窓開けてなかったっけ?」
「閉めてきたから気にするな」
葛の肌は白い。卓上灯の橙が舐めると艶めかしいように発光して照る。艶やかな濡れ羽色の黒髪。黒曜石の双眸。通った鼻梁にすっきりと切れあがった眦は化粧筆で刷いたように睫毛は密だ。容姿端麗。葛の見た目を表すならそれだ、と思う。
「あおい」
ぴく、と葵の指先が震えた。扉を閉める。施錠はしない。防犯理由と本業の性だ。靴を脱いで走りまわっていた葵の足裏は板張りの湿気を吸ってペタリペタリと音がする。寝台に歩み寄る葵の手を取った葛の紅い唇がそっと添えられる。葛の白皙の美貌は興奮の紅潮や驚愕の蒼白が明確に判る。唇が特に交渉中は舐めてもいないのに艶やかで艶やかだ、
「こい、貴様に訊きたいことがある」
葵の背筋が凍る。それでも発する葛の熱は葵を融かして葵は葛の元へ跪く。ベルトのバックルを解く金属音が開始の合図だ。葵は取り出した葛の抜き身を口に含んだ。
「それで、何を考えていた」
「へ?」
完全に意識と思考が移行していていた葵には唐突な問いだった。寝そべっていた体を横にして葛は壁に背を預けている。どう見ても一人用の寝台であるから、互いに横寝になって居場所を確保している。
「客あしらいもぞんざいで、機器の扱いはいうまでもない。レンズ越しに何を見ていた? お前の視点の変わり身の早さは知っているが一所に留まるのは初めてだな。何か一つだけのことに想い悩んでいる、節があった」
観察眼の鋭さに葵はヒュウと口笛を吹いた。葛は馬鹿にするかとも怒らず葵の出方を見ている。それだけ葛がこれを冷静に、また長期戦で事を構えるつもりであることが知れた。その場しのぎではぶりかえしが続くだけで解決にはならない。葛は事を構えるとなれば長考も厭わない。葵はあっさりと白旗を上げた。
「ごめん、オレからお前にあげてなくてあげられなくて、そんな言葉があって、だからどうしたらいいか判らなかった」
「なるほど」
あァ、これで終わると葵の体から力が抜けた。自分の腕の枕にするのもそろそろ辛い。
「あいしている」
ぞわァあッと葵の全身を電流のように恐れが奔った。見開かれた肉桂色の双眸を見て葛は口元だけで笑った。
「最上の睦言だ。重い、言葉だ。そして真摯な言葉だ」
葛は葵の肩へ毛布をかける。白い腕が動くのは闇の中の発光物のそれのように目についた。
「くだらない。だが大切だな」
行為で乱れた葛の黒髪がはらはらと秀でた白い額へ散っている。眉の上までかかるそれは葛を年より幼く見せる。
「お前は判りやすい。俺に、一度も言っていないことを忘れていない」
漆黒は葵の動揺を孕んだように揺らいで揺れる。葛の眼差しがいつになく優しい。眇められた漆黒。
「だが言わずに後悔する場合もあるぞ。そういう時にお前は、誰の胸で泣くんだ」
葛も葵も本業として命の保証はない。歯車で螺子で、だから組織の末端であるから切り捨てられること自体が前提なのだ。切り捨ては社会的地位だけではなく即物的に生命にさえ影響した。
葵の口元が戦慄いた。唇が不規則に震えて白い歯列が覗く。
「感情を見せろと、お前は出会ったばかりの俺につけつけと言い放ったろう」
葛の綺麗な乳白が息づくように葵を魅了する。
「言え」
「…――こわかっ…た! 好きな人がいた。愛してた。けど好きな人はオレが知らないところで知らないうちに死んで、だからオレが愛する人はきっとみんな、だから」
あいしている、っていってしまったら
君までいなくなってしまうみたいな気がしたんだ
庶子。父なし児。御落胤。葵について回るそれらすべてを笑い飛ばしてくれる女性がいた。愛していたと思う。その彼女は姿を消して次に出会ったのは墓前だった。
愛してた。亡くした。
愛してた。失くした。
愛なんかもう知らぬふりで遠ざけなければならないんだ
「あおい」
葛の声が穏やかだ。
「俺はお前の由来も経緯も知らないし、知る身分ではない。だが」
感情の統御は思わぬ負荷を強いるぞ
敗れる恋でもよいから、人を好きになることを止めぬ方がいいと、俺は思う。
ふふ、と葛が笑う。
「出会ったばかりの俺にお前が言った言葉だ。「今を素直に生きろ」と」
紅くて艶めかしい唇、が。白い肌。黒くて密な睫毛。潤んだような漆黒。端正な顔立ち。鼻梁。
「出来ないならば、泣けばいい」
ぎゅう、と葛の腕が葵の体をただ抱きしめる。ばっさりと短髪にされた肉桂色の髪を梳くように指を入れて鼻を押しつけてくる。細い首を撫でて華奢な肩を抱きしめる。細い体を葛が抱擁している。何も知らない関係だ。だがだからこその抱擁と弛みでもある。
葵の涙腺は決壊した。体中の水分が涙や涎や洟になって垂れ流される。堪えようとすると胸部が不規則な痙攣を起こした。
「……――…ッう、わ、ぁ…――」
葵は葛の背に爪を立てて抱きついて泣いた。くだらないことにとらわれていると知っている。それでもその枷は葵の根底にあって覆せないものだった。それを言いあてられてそのうえ構わないといわれる。肯定された。
葛の一言と抱擁で葵を鎧うものは一切が崩壊した。
「確約はできない。だが、俺は、お前が必要としてくれている程度にはともにいる覚悟はあるつもりだ」
艶を帯びた黒曜石を見つめられずに俯く。パタパタと落涙が頬骨や鼻梁を流れ落ちていく。
「俺はこの交渉について無理に感情を伴わせる必要はないと、想っている」
「お前は何があってもお前でしかなく、俺もなにがあっても俺でしかないと、判ってくれたらそれでいい」
葛の対応はどこか冷淡で、でもだからこそ葵は安堵する。泣きながら笑って葵はへらりと。洟をすすった。
「ありがと」
好きな人との出会いなんて突然だわ、それは用意された場かもしれないし、街角かもしれない。けれど本当に愛してくれる人との出会いは絶対に、判るわ。真っ当ではないと後ろ指をさされながらも慎ましく生きた母の言葉が甦る。社会的に真っ当かどうかを考えていたら、本当に愛してくれる人を見逃してしまうわ。気をつけなさいね。そのとおりだよ。葵がくすりと笑んだ。
「ほんとうだ」
ばらばらばらと鎧戸を打つ雨が涙雨のようで葵はただ葛の胸の中で慟哭した。
いなくならないよな? とは訊けぬ
いなくならないとは、言えない
それでもただ、今、二人は。互いの体温を感じながら寝台の上で蠢いた。
《了》